投稿者「スタッフ」のアーカイブ

15.「在宅ケアは無理」と訴えていた娘に最期は自宅で看取られた女性

Mさん 年齢:70歳 女性

病歴:認知症、胃がん

家族:夫とは死別。徒歩圏内に結婚して家を出た娘(50代)が住む。

 

Mさんは夫と死別してからはずっと一人暮らし。軽度の認知症を発症していたが生活全般には問題なく、ヘルパーの助けもなく生活をしていた。近所に結婚して家庭をもった娘がおり交流があった。あるとき体調を崩し病院に行くと胃がんが見つかった。医師は手術は勧めず薬で治療していくことが良いのではないかと娘に伝えた。仕事をもつ娘は「自分が自宅で母親の面倒を見るなど絶対に無理。どこかのタイミングでホスピスに入ってもらうようにしたい」と訪問看護師に訴えた。

 

この時期から週1回の訪問看護が始まったが、Mさんは認知症のせいか自分ががんと診断されたことも忘れたようでその後も一人で生活全般をこなすことができた。痛みもさほどなかったようで病院に行きたいなどの訴えもなかった。がんの影響で腹水がたまるのだが、自身ががんである認識がないため「なんでこんなにお腹が張るのかしら」という訴えを娘や訪問看護師にするのであった。

 

娘はそろそろ「ホスピスに入院を」と考えたが、本人の様子を見ていると言い出すタイミングを見つけられずにいた。訪問看護師は「ホスピスに入るにしてもご本人が納得されることが大事。今はまだそのタイミングではないのではないか」と伝えた。「本人は認知症なのだから病院でも自宅でも入ってしまえばわからないのではないか」というのは家族によくある初歩的な誤解の一つである。認知症であっても本人の意志は必ずある。納得しないまま施設に入っても自分の意志に反したことはわかる。看護師は服薬による痛みのコントロール、体の状態(血圧や脈拍など)を観察して訪問看護を続けた。

 

仕事をもつ娘にとっては自宅で母親を看取るなどそれまで想像もできなかった。しかし、入院するつもりなどまったくない母親と面と向かうとホスピスに入ったら?などと言い出すことはできなかったし、実際の母親の暮らしを見ていると一人でもそれなりに生活はできており、無理して入院することもないかと思うことも増えてきた。娘がもっていた「人は家で死ぬものではない」という意識が薄れてきたせいでもある。

 

しばらくするとMさんの体力はガタンと落ちた。その状態に合わせて訪問看護師は毎日訪れるようになった。Mさんからも「息をするのがしんどい」との訴えが出てくるようになった。心不全のせいか呼吸がゼイゼイと聞こえるようになり食欲もなくなってきた。訪問看護師はその様子から死が近づいていることを予感した。しかし「この状態でホスピスに移れば、かえってMさんの体に負担がかかり死期を早めることになりかねないし、娘さんとの最後の時間をゆっくり過ごすこともできないであろう」と感じた。そこでありのままにその思いを娘に伝え、さらに「それでもホスピスに入院させたいと思ったらいつでも言ってくださいね。すぐに手配をしますから」と最後までサポートすることを約束した。

 

Mさんはだんだん衰弱していったが最後までコミュニケーションはとることができた。娘はMさんが亡くなる一週間前から仕事を休み、いっしょに過ごし最期を看取ることができた。娘は訪問看護師に「家で看取ることができて本当に良かった」と繰り返して伝えた。

 

はじめは母親をいつホスピスに入らせるかばかりを考えていた娘であったが、Mさん本人が最期まで家で過ごす強い気持ちをもっていたことと、実際にMさんが1人で生活する努力を続けていたことを見て、娘もそれを最後までサポートしようという気持ちに変化したようである。また訪問看護師が「いつでもホスピスに入れる手配をしますよ」と伝えたことで安心感が生まれ、それがかえって母親を家で看取る覚悟につながったのではないだろうか。本人と家族の気持ちが一致して、そこに医療スタッフと地域施設との連携ができれば在宅ケアへのハードルはもっと低くなると感じられる事例である。

 

-自宅で死ぬということ- 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は12月27日にお届けしますのでお楽しみに

14.「畳の上で死にたい」と家族の思い出のある自宅での死を望んだ女性

Jさん 年齢:90歳 女性

病歴:認知症、末期内臓がん

家族:夫とは十数年前に死別。娘がいるが絶縁状態。連絡がつくのは親戚の男性Kさん(30代)のみ。

 

Jさんは夫と死別してからは一人暮らし。娘とは連絡をとっていない状況のなかで認知症を発症。かろうじて親戚の男性Kさんと連絡がとれるのみだった。ヘルパーが食事や洗濯のお世話をしていたが、亡くなる数か月前から体調不良を訴えたためヘルパーがKさんに連絡を取り最寄りの市立病院に連れて行った。外来で末期の内臓がんと診断され、体力も衰弱していることからその場で入院を勧められた。しかしJさんは大声を上げてかたくなに拒否して帰宅。困った病院から訪問看護ステーションに在宅ケアが可能か相談があった。

 

訪問看護ステーションの管理者とケアマネジャーがJさんの自宅を訪ねると「帰ってくれ!」と最初は面会もできなかった。当時はヘルパー以外、訪問診療の医師さえも会えない状態だった。会えば「自分はどこかに連れて行かれる」という猜疑心をもっていたようだ。Kさんに相談して「市の職員」と名乗って訪問看護師がJさんと面談。ちょうど玄関の電球が切れていたので「明日に取り換えに来ますね」と約束して翌日に訪問するなどしてようやく人間関係を築けるようになった。

 

Jさんの自宅は昭和に建てられた2階建て戸建て住宅で、1階は仏間、リビング、キッチンであり2階は使われていなかった。各部屋には家族の若かりしころの写真がたくさん飾ってあった。小さな庭がありそこに生えた草花がいつも仏壇に供えられていた。看護師との関係構築ができていくとJさんはかつて20代の息子を亡くしたことを語った。その息子、夫、両親を「仏さん」と呼んで仏壇で供養していた。その仏壇を守ることがJさんが入院をしないいちばんの理由だったようだ。Jさんは昔の写真を見ながら家族のことをよく語るようになり、今は連絡の取れなくなった娘にも会いたいと本心を打ち明けるようにもなった。Jさんにとっては一人暮らしであっても自宅はかつて家庭のあった場所であり、気持ちとしては一人ではなかったのであろう。体力が落ちていくなかで看護師は何度か「入院をしたほうが楽になるのではないか」と入院の意思を確認したがJさんは首を縦に振ることはなかった。それでも一人で家にいることはさみしいらしく、看護師が訪問した際には「よく来てくれた」と喜び、帰る際には「帰らんといて」と手を握ることもあったという。

 

訪問看護を始めたころは体力的にはまだ一人で出歩くことも可能ではあった。しかし認知症があることから外出先で帰宅不能にならないように訪問看護師は「地域見守り隊」をつくった。具体的にはJさん宅の向こう三軒両隣を訪問しJさんの状況を伝えて、もし近所で姿を見かけたときは声を掛けたり自宅まで送ってあげてほしいと頼んだ。昔から近所付き合いがあったことからみな快く受け入れてくれた(そのおかげで外出中に体力がもたず帰れなくなったJさんを近所の方が見つけて自宅まで送ってくれたこともあった)。

 

要介護2でヘルパーは毎日訪問して「身体介護(清拭や排せつ)」「生活介護(食事や掃除)」を行ない、訪問看護は週に3回、体の状態のチェック、がんの痛み止めの薬や水分がきちんと飲めているかなどの管理と本人の話をよく聞くことに徹した。時間の経過とともにJさんの体力は落ちていき、家の中を歩いて移動することも困難になってきた。看護師が訪問するとJさんは布団で寝ているだけでなく、仏間、キッチン、玄関などいろんなところで倒れるように寝ていることも多くなってきた。そこで看護師はどこで転倒してもケガをしないように布団を家中に敷き詰めた。訪問看護師は「どうやら一人のときは這うように家の中を移動して“自宅での生活”をされていたように思います。布団で寝ているだけでなく、ときにはリビングに行って家族の写真を見ながら語り掛けたり、玄関の様子を見に行ったり。病院のベッドの上にずっといるよりご本人は幸せだったのではないかと思います」と。

 

自宅で死ぬということは、その人にとってはそれまでの人生を歩んだ家族やご近所さんとの関係性の中で最期を迎えるという意味がある。たとえ一人暮らしでもJさんは亡くなった息子さんや夫や両親の供養をしている仏壇を守ることが人生の最後のおつとめだと思っていたのだろう。「畳の上で死にたい」と生前から言っていたJさんは、自宅に介護ベッドを入れることもなく文字どおり自宅の畳の上に敷いた布団で亡くなられたという。本人の望みどおりの最期だったのではないか。

 

-自宅で死ぬということ 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は12月13日にお届けしますのでお楽しみに。

13.退院前に病院から「一人暮らしは無理」と言われたが在宅で過ごせた女性

Tさん 年齢:79歳 女性

病歴:がん(終末期)、心臓病、認知症

家族:70歳で離婚。娘1人、息子2人がいるが独立しており独居。娘1人とは絶縁しており30代の息子が遠方から世話をしていた。

 

Tさんは入院中から認知症があった。しかし身の回りのことは自分でできたため、最初は退院をして一人暮らしをしていた。だが心臓病を発症して入退院を繰り返すうちにADL(日常生活動作)が落ちてきて退院をすることがむずかしくなってきた。治療には服薬をすることが絶対条件であることもありケアマネジャーが面談したところ「認知症もあり在宅で本人が定期的に服薬することはできないと思われる」との判断がなされた。

 

息子は「本人の気持ちを大事にしたい」と病院に掛け合ったため、病院側から訪問看護ステーションに相談がなされた。訪問看護ステーションでは「毎日の訪問を行えば一人暮らしも可能である」としてTさんの在宅ケアが始まった。

訪問看護は毎日、ヘルパーの訪問は食事の用意などを中心に当初は週に3回であった。看護師は回想法などを用いて認知症が進まないようにした。回想法とは写真や映像を見ながら過去を思い出したり、いろいろな会話を通じて人生を振り返ることで脳を活性化させたり気持ちを落ち着かせる認知症リハビリテーションの手法である。それ以外には特別な看護をしなかったことが本人の自尊心を傷つけなかったと思われる。

 

退院前は、入院時の姿から「認知症のために身の回りの整理整頓はできないであろう」と見立てられていたが、実際に自宅に戻り生活する姿を訪問看護師が確認したところ、Tさんなりの秩序がありそのなかでの整理整頓がなされていることがわかった。ADLに関連する買い物や掃除、服薬やお金の管理、趣味の活動や公共交通機関の利用や電話をかけるなどの幅広い動作をIADL( Instrumental Activities of Daily Living)というが、ぎりぎりまでIADLを保つことができた。一人で入浴することもでき、在宅ケアは思いのほか順調だった。電車で2時間ほどかかるところに住んでいた息子だが、折に触れて母親に電話をし、週に1回以上は訪問を続けた。

 

途中何度かの入院や自宅室内での転倒もあり、ケアマネジャーやヘルパーからは「やはり在宅ケアは無理ではないか」との意見も出たが、息子は「父の思うような最期を」という願いが強く訪問看護師、ケアマネ、ヘルパーでその都度、話し合いを行った。その結果、ヘルパーと看護師の連携は試行錯誤が続いたが約2年間在宅ケアを続けることができた。

終末期の1か月は心不全とがんの悪化により体力も落ちたので毎日、朝晩の訪問看護と昼のヘルパー訪問を行いつねに目が届くようにした。最後は自宅で息を引き取ったが、本人は一人暮らしをすることにより入院時よりも気力、体力とも回復できていたと思われる。自分ががんであることも自覚していたが「100歳まで生きていたい」と訪問看護師に話しかけることもあった。

 

この事例でわかることは、入院中の姿からだけでは必ずしも「在宅ケアはできない」とは言い切れないということである。もちろん施設では看護師やケアマネジャーがその姿から退院後を想像しながら判断をするのでそれを疑えということではない。ただ、彼らは施設内看護の専門家ではあるが在宅ケアの専門家ではない。家に帰ることで患者が施設内では発揮できなかった力が引き出されることがある。また「自宅に戻った限りは自分でなんとかしなければならい」という気持ちが患者に芽生えることもある。病院のようにナースコールを押せばすぐに訪問看護師がやってくるということもない。自分でなんとかやってみようという気持ちの張りが施設にいるときとは違う力を発揮させるのかもしれない。

 

本人に自宅に戻る気持ちが強く、ある程度、身の回りのことができるのであれば退院前に訪問看護ステーションに相談して在宅ケアの可能性を探ってみることも一つの手である。

 

-自宅で死ぬということ 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は11月22日にお届けしますのでお楽しみに。

12.認知症と病院でレッテルを貼られた男性

Hさん 年齢:83歳 男性

病歴:心不全、前立腺肥大

家族:妻は特別養護老人ホームにいるため一人暮らし。子どもはない。兄弟とは縁遠く付き合いなし。

 

Hさんはかつてマスコミで仕事をしており、自分の意見や主張をはっきり言う人だったらしい。加齢とともに耳が聞こえにくくなり周囲とのコミュニケーションがとりにくくなっていた。肺炎で入院した際に看護師との何度か意思の疎通が図れないことがあったようだ。たとえば、本人は耳が聞こえにくいのは補聴器が壊れているせいだと伝えているのにそれが看護師には聞き入れられなかった。さらにコミュニケーションができないのは認知症のためだと診断された。

 

その後、特養に移されたが本人は「家に帰りたい」と言い続けていた。そこで訪問看護ステーションが介入し自宅で週に2回の訪問看護で服薬管理、体調管理を行い、掃除、洗濯は訪問介護を利用することで在宅ケアを行うことになった。自宅はかなり荒れており「ゴミ屋敷」状態に近かったが、本人はモノの置き場所などは把握していたのでヘルパー、訪問看護師が連携をして整理整頓を進めた。前立腺肥大のため紙オムツを使用していたが、尿漏れを起こしていることもあり、訪問看護は1回の訪問でふつうより時間を多めにとって処置を行うことにした。

 

訪問看護を行うなかで看護師は認知症と診断されていることに違和感を覚えた。なぜならHさんはちゃんと会話を理解しており、言っていることも辻褄(つじつま)があっているのだ。ただ難聴のためにそのコミュニケーションに時間がかかる。本人にしてみれば「なぜわかってくれないのか」との怒りの感情とともに自尊心も傷つけられていたようだ。病院では認知症と診断されていたが、訪問看護師の見立てでは年齢的な認知機能の低下は認められるものの認知症と診断されるほどではない。相手の言うことが聞こえれば会話は成り立った。Hさんは「病院ではだれも自分の言っていることを聞いてくれようとしない。あそこは“収容所”だ。私を送り込んだケアマネジャーを一生うらんでやる」とかなりの剣幕であった。このような訴えもいったん「認知症だ」というレッテルを貼られてしまうとなかなか正面から受け止められにくくなるのが現実だろう。逆に「困った患者さん」としてひとくくりにグループ分けされて、そういった対応をされてしまう。

 

「それをきちんと診断するのが病院の役目ではないか」という指摘は当然あるだろう。しかし、それがしにくいのも昨今の病院の現状でもある。医療費抑制のために入院期間は短縮化されている。その期間では当然、看護より治療が優先されてしまう。「時間薬」という言葉がよく使われるが、病院では時間薬は処方されない。それぞれの患者ごとに看護計画が立てられるが、それがすべて達成されてから退院をするわけではないのだ。看護計画が達成されないまま入院期間は終わり退院していく。残された看護課題はどうなるのかと言えば、本来は家庭に戻り、本人(と家族)がそれに向けて継続してセルフケアをするということになるはずである。自宅で質の高い看護を保ち続けることができればよいが、できなければ病状が悪化して再度入院となる。そして入退院を繰り返していくうちに病院で最期を迎えるということが多い。

 

「ときどき病院、ほぼ在宅」という言葉を前に紹介したが、そうなるためには「ほぼ在宅」への意識転換が必要だ。病院に勤める看護師も患者の退院後の生活までに関われるような体制があればよいが、業務の分業化がされている病院ではむずかしいだろう。だからこそ病院と訪問看護ステーションが連携をして看護計画を継続できるようにしていくことが必要である。

 

念願の在宅ケアに戻ったHさんは、在宅酸素を必要としている状態でも酸素なしで外出して映画を見に出かけ楽しかったことや、お風呂が大好きだったので1人で銭湯に出かけてその風貌から入店を拒否されたことを憤慨しながら話すなど、訪問看護師を驚かせた。しかし喜怒哀楽のある自由な生活を送れたのではないだろうか。その後、心不全の悪化と緩解を繰り返し終末期を迎えた。そのころには看護師もヘルパーもほぼ毎日訪問し、最後は自宅で亡くなられた。

 

高齢化によって認知機能の低下が認められるのは仕方のないことである。しかし、それを「認知症」としてとらえてしまうと、本来見えるべきものが見えなくなってしまうことがある。医師、看護師、家族……それぞれの視点から見ることも大事である。とくに医療スタッフは本人とそれまでの接点がなければ、その人となりを知らない。Hさんは若いころからマスコミ業で自分の主張を訴えてきた人であった。自分の訴えが受け入れられないことが入院中は腹立たしかったのだろう。訪問看護師とのコミュニケーションがとれたことによりHさんも落ち着くことができた。Hさんは独り暮らしであったがもし家族が近くにいたら認知症の診断ももう少し慎重にされたかもしれない。

 

-自宅で死ぬということ 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は11月8日にお届けしますのでお楽しみに。

11.最後まで自由に自分の意思を貫いた男性

ここからは実際に訪問看護の事例を紹介していく。

Aさん 年齢:80歳

病歴:がんで「余命半年」と宣言される

家族:妻はすでに死亡。一人暮らし。50代の娘は結婚して家族を持ち別居。

 

Aさんはもともと豪快な性格で自由に生きてきた人。がんの宣告を受けても「入院はしたくない。死ぬときは自宅で死にたい」と退院を選んだ。娘は車で通える距離に住んでいたが、Aさんは一人暮らしのままでの訪問看護ステーションを利用する形で在宅ケアがスタートした。退院前に訪問看護ステーションの管理者が面談して、在宅医の月2回、訪問看護師の週1回の訪問が決まった。この時点では医療保険のみで、介護保険は使われなかった。

 

Aさんはもともと一人暮らしをしていたので、退院後の生活も大きな変化はなかった。自宅マンションのすぐ近くにスーパーがあり食事は自炊ができた。週1回の訪問看護ではバイタルチェック(体温や血圧)、生活が成り立っているか、栄養状態はどうか(ゴミ箱を見るなどして生活状況を確認)、お風呂や排せつに問題がないか、体に痛みはないか、精神的に安定しているかなどを質問とともに確認。訪問後はその状況を娘にメールで報告することにより、家族との関係も構築していった。

 

しかし2か月ほどすると歩くのが困難になってきた。ケアマネジャーが面談し介護保険を使うことになった。介護ベッドレンタルを開始し、ヘルパーが週に3回訪問。食事、洗濯、掃除を行い、ヘルパーと連携しながら訪問看護師も週に2回から3回に訪問回数を増やした。娘もときどき訪れ泊まっていくようになった。Aさんはスーパーへの買い物途中で歩行困難になることがあったが、日ごろから近所づきあいがあったために顔見知りの人に助けてもらったこともあったようだ。在宅ケアにはそういったそれまでの生活環境や人間関係も大きくかかわってくる。病院に入院してしまうと、こういった周囲とのつながりが突然失われてしまう。それまで自宅で積み上げてきた環境(家族やペット、地域との関係など)とのお別れの時間を在宅ケアではもつことができる。

 

3か月になると排せつが困難になり安楽尿器(寝たまま尿ができる器具)の使用なども始まる。娘がこのころから頻繁に訪れ宿泊するようになったが、仕事が忙しく出張も多かった時期だったので訪問看護ステーションとの連絡を密にして利用方法を考えた。2~3日の出張の場合は夜間に訪問看護を行うなどし、1週間ほどの出張のときは近くの病院でのレスパイト入院(一時的な入院)を利用した。また、この時期からがんによる痛みの訴えも出はじめたのでペインコントロール(薬による痛みの軽減)も行った。しかし、痛みはなかなか治まらなかった。医師によれば「肉体的な痛みというよりも、この生活がいつまで続くのかという不安による心の痛みがあったのではないか」とのこと。痛みを訴える患者を目にすると「やはり入院したほうが良かったのか」と思うかもしれない。だが、その痛みは病院に入院していたとしても同じように発症していたであろう。精神面からくる痛みがあるという理解も家族には必要だ。その姿を家族が目の前で見るか、病院で看護師たちが見るかの違いである。こんなところに家族には在宅ケアへの覚悟が必要なのかもしれない。「人生の最期まで寄り添う」というのはこういった姿を受け止めることなのかもしれない。

 

Aさんは死期が近づいてくると精神的に不安定になることが多くなり、ヘルパーに「帰ってくれ」など攻撃的な言葉が出るようになってきた。そんなときは生前の妻の写真を見せたり、好きな歌を歌ったり、好きな花を見たりすると落ち着いた。そういった情報は娘から訪問看護師にもたらされており、ヘルパーとも共有されていた。家族との情報交換が重要であることがわかる。このころから訪問看護も訪問介護も毎日の訪問となった。看護と介護の違いは前に記したが、役割の違うスタッフがかかわることでそれぞれの専門性を発揮することができる。それによって娘はこれまでどおり仕事を続けることができた。

 

最期のお別れは娘が出張に行く当日。訪問看護ステーションと事前に打ち合わせをして出張中は夜にも看護師が訪問をするなどの段取りを決めていた。朝に娘さんが訪れて「行ってくるね」と声を掛けると「うん」とうなずいたが、その直後に息を引き取ったという。

 

Aさんは最後まで自分らしい生活をしながら自宅で生きることにこだわった。娘もそれを支援しAさんの「自然体の生き方」を尊重した。そこに医師、看護師、ケアマネ、ヘルパーがチームでかかわりサポートした。一人暮らしの男性が家族の支援を受けて、自分らしさを貫いた事例である。

 

なお、この事例の訪問看護では後期高齢者医療の月限度額8000円以内、訪問診療も月8000円以内であった。これに訪問介護の利用料金が加わる。料金は納税額などの条件によって違うので一概には言えないが、「在宅ケアは入院よりもお金がかかる」という認識をおもちであれば改めていただいてもよいと思う。

 

-自宅で死ぬということ- 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は10月25日にお届けしますのでお楽しみに。

10.良い訪問看護ステーションの選び方

私が父親を看取ったとき(2014年)、在宅ケアをするという選択は私にはなかった。まず在宅ケア自体をよく理解していなかった。特定の病気の人だけが選択できるケアだと思っていた。年をとって脳梗塞で一度入院してしまったのだから、そのまま病院から帰って来れなくなっても仕方がないものだと思っていたのだ。知識がないのだから当然選択肢には入らない。また、在宅ケアをする環境もなかった。在宅ケアを勧めてくれる人もいなかったし、近くに訪問看護ステーションもなかった。いや、実際にはあったのかもしれないが、こちらの意識がなかったから目に入らなかったのだろう。

 

ところが父親が亡くなってから、仕事がらみで訪問看護ステーションを運営するKさんに話を聞く機会があった。私が自身の体験を話すと「あら、それなら訪問看護で十分対応できたと思いますよ」という反応だった。え?と私は驚いた。当時の状況、つまり父親は母親と二人暮らしであり、息子である私や兄は離れて暮らしていたことなどを話しても「大丈夫ですよ。できましたよ」とおっしゃる。そこから私の在宅ケアへの意識が変わっていった。また時代もそれから加速度を上げて変わりつつある。

 

在宅ケアについて関心をもった私はその後、いろんな場面で訪問看護ステーションの運営者から話を聞いた。ところが私の父親のケースを話すと、すべての方がKさんのように「大丈夫ですよ」とは言うわけではないことに気がついた。なぜだろうか。同じ訪問看護ステーションでもその運営者によってできることが違うのだ。それは訪問看護ステーションの経営方針や運営者の思いの違いによるところも大きい。

先述のKさんはもともと病院勤務をしながら自分のできる看護に違和感をもっていた。一人の患者さんと寄り添う看護をしたいと思っていたKさんだったが、病院勤務をしていると突然、受け持ち患者の担当が変わったり、理由も教えてもらえぬまま患者が転院をしたり、もっと言えば亡くなっていたりということがあった。Kさん自身が思い描いていたのは「患者さんを最期まで看取る看護」だと気づき、病院を辞めて訪問看護ステーションを立ち上げたのだ。このように訪問看護ステーションはその運営者のスタンスによって行われる看護に違いがあると思っておいたほうがよい。

 

大きく2つのタイプに分けられる。1つは「指示待ち型」。訪問看護ステーションは医師の治療方針に沿って看護が行われるのだが、それは医師に言われるままということではない。看護師の判断が現場でなされてこそ訪問看護である。医師の治療方針を看護師がしっかり咀嚼して看護に活かせているかどうかがたいせつだ。

 

また、ケアマネジャーの存在にも目を向けたい。ケアマネジャーとは患者の状態を把握して「ケアプラン(介護計画書)」を立てる人である。このケアプランによって患者(利用者)が受けられる介護サービスの種類、内容、利用回数、時間、利用料金などが決められる。そのためにケアマネジャーは月に一度、患者宅を訪問して患者の状況を把握して評価(アセスメント)をする。このケアマネジャーに看護の視点があるかどうかが非常に大きい。ちなみにケアマネジャーは保険・医療・福祉の国家資格の保持、生活援助職、介護施設での実務経験5年以上がありケアマネ試験に合格して実務研修を経て登録することが条件である。なので同じケアマネジャーといってもそれまでの経験はそれぞれである。看護師の実務経験をもったケアマネジャーが「看護の視点」があることは想像にたやすい。もちろん肝心の看護師がケアマネジャーの指示がないと動けないというのでは困る。

 

2つめは「提案型もしくは課題解決型」である。現場で看護師が判断をしながら患者対応するのが訪問看護である。病院であれば、なにかあったときすぐに医師や療法士を呼んで対応することができる。しかし訪問看護は基本的にはその場に看護師が患者の状況や環境を把握して対応をしなければならない。「いったん戻って医師や運営者と相談してから決めます」では訪問看護をしているメリットが薄らいでしまう。さらにその状況をきちんとケアマネジャーに報告することができる看護師かどうかが、患者にとってより良いケアプランを立ててもらえることにつながる。現場で看護師が気づいた課題に対して、その場での改善を提案したり、解決できる訪問看護師がいれば、病院以上のスピードで手が打たれる。

 

ではどうすれば「良い訪問看護ステーション」見つけられるのか。口コミは重要である。近くに利用者がいたら評判を聞いてみることだ。いちばん良いのは事前に訪問看護ステーションを訪問して管理者に会ってみることだろう。そして自由にどんな訪問看護を望むか、どうしてほしいのかを話してみることだ。良い訪問看護ステーションならば相談に対して具体的に「その場合はこんなことができる」とか「このような対応ではどうか」といった回答をしてくれるはずだ。できない理由を並べたり、事前相談ができないような訪問看護ステーションであれば避けたほうがよいのではないかと思う。

 

-自宅で死ぬということ 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は10月11日にお届けしますのでお楽しみに。

 

9.自宅で死ぬことは「死ぬまで自宅で生きる」こと

在宅ケアの本質は「自宅で死ぬこと」ではなく、「死ぬまで自宅で生きる」ことである。言葉遊びのように聞こえるかもしれないが、ぜんぜん意味が違う。「自宅で死ぬ」ことは目的ではなく、「死ぬまで自宅で生きた」結果である。

 

先にも記したが家族にとっていちばんの心配ごとは「いざというときどうするか」である。病院や施設に入院していれば、いざというときにすぐになんらかの処置をしてもらえる」と思っているかもしれない。しかし、入院していても24時間だれかがベッドサイドにいてくれるわけではない。夕方には意識があったのに、夜中の巡回時にはすでに亡くなっていたということもある。老衰で亡くなるときなどはだんだん寝ている時間が長くなる。そうなると「いざというとき」がだんだん近づいてくることは医師や看護師でなくでもわかる。

 

昭和50年代、私の祖母が京都の自宅で老衰で亡くなるちょっと前に、往診に来ていたお医者さんが母親に「いつお迎えが来るかはもう時間の問題ですから、ご親戚の方に早いうちに来ていただくのがいいです」と言った。当時、私は高校生だったが「あぁおばあちゃん、もうすぐ死んじゃうんだ」と思ったのを覚えている。それから連日、叔父や叔母たちが東京や神奈川からやってきた。父親は毎日、祖母を気にしながらも会社に行っていたし、私もその日がいつ来るのか気にしながら落ち着かない日を過ごした。学校から帰ってきては「おばあちゃん、まだ大丈夫?」と部屋をのぞきに行った。母親も静かに日常生活を送っていた。

 

そしてその日はやってきた。夜の9時ごろだったか、テレビを見ていると父親が「おばあちゃん、亡くなったみたいだ」と祖母の部屋から出てきた。母親は夕方に様子を見に行ったときにはまだ寝息があったのに、と言いながら、私たちと祖母の部屋に行った。それからお医者さんに来てもらい診断をしてもらった(今思えば「死亡診断書」を書いてもらったということだろう)。こうして思い出すと今から40年ほど前だが、死は日常生活のすぐ隣合わせにあったような気がする。「家で死ぬ」ことが当たり前だった時代だったのだ。

 

亡くなるに至るまでも今でいう認知症もあった。突然家から姿を消した祖母を探しに近所を探しに行ったことも何度かあったし、保護されて警察から連絡をもらったこともあった。当時は老人施設は今ほどなかったし、家で看取るのが当たり前の世の中でそんなものだと思っていた。そういう日常を過ごすなかで家族が「祖母の死」に向かうプロセスを受け入れながら「その日」に向かって覚悟を固めていけたのかもしれない。

 

この数十年で世の中は家で死人を出すことに免疫がなくなっている。家族に「いざというとき」の覚悟が固まっていないと自宅で死を迎えたときにうろたえてしまうだろう。本人の呼吸が止まっていたり、弱くなっていることに気づいてパニックになって救急車を呼んでしまうかもしれない。訪問診療や訪問看護を受けていれば、もし死が近づいている兆候があればプロの目が見逃さずに、その他ときの対応を事前に話し合っておくことができるが、それができていないとあわてて救急車を呼んでしまうかもしれない。

 

そうなると救急隊員は本人や家族が望んでいなかったとしても蘇生に向けて手を尽くす。それはそうだろう。呼ばれて来ているのだから。消防庁の基準は生命に危険があれば応急処置を行うことを規定している。また救急車が到着したときにすでに亡くなっていると救急車は遺体はそのままにして警察に連絡をして帰るしかない。ご存知のように救急車は遺体を搬送することはできない。警察が来ると事件性を解明するために現場検証と家族への聞き取りが行われる。そうなると本人と家族との最後のお別れはあわただしいものになってしまう。そんなことがないように在宅ケアを行う場合は、信頼できる訪問看護師と訪問診療をしてくれる医師を見つけておきたい。彼らは「自宅で最後まで生きること」をサポートしてくれるプロである。

 

病院での勤務を経験した後に訪問看護に携わるようになった看護師が言っていた。「訪問看護で看取りをするようになって感じたことは、亡くなられた患者さんの顔や体がきれいだということです。無理な延命処置をせずに自然に亡くなると体に余計な負担をかけないせいでしょう」と。

 

繰り返しになるが自宅で死ぬといくことは、最後まで自宅で生きるということである。もちろん自宅での治療ができない場合はいったん病院に行けばよいのだ。大切なのは最後まで「自宅にいたい」という思いを本人と家族、そして医療従事者で支えながらそれをかなえていくことだろう。

 

―自宅で死ぬということ― 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

 ※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は9月27日にお届けしますのでお楽しみに。

 

 

8.自宅で死ぬための「患者力」をつける

「死ぬことは生きることの総仕上げ」と言われる。どのように生きるかはだれもが考える。しかし、どのように死ぬかについては声高に語られることはあまりない。2世代、3世代で暮らしていたころは「家族に見守られながら静かに」が当たり前だったかもしれない。しかし核家族が8割以上を占める現代では日常生活の延長線上で家族に見守られて亡くなることはむずかしくなっている。何かのきっかけで入院し、施設に転院し自宅に戻ることなく人生を終えること人がいかに多いことか。

 

自宅で死にたいと思うなら早い時期から周囲に伝えていくことが必要だ。先にも述べたが、もし死が現実的になってからだと選べる選択肢は少なくなってしまう。できるだけ元気なうちにしておいたほうがよい。入院してからだとどうしても「お医者さんに言われたとおりに」なりがちである。なにしろ入院しているということは、それだけでアウェイで戦っているようなものである。どうしても医師や看護師に「あの人は困った患者さんだ」と言われないように、言いたいことも我慢してしまいがちである。

 

しかし、医療界では「患者中心の医療の実践」という言葉が使われて久しいのだ。患者中心ということは、主人公は医師でも看護師でもない。患者が主人公ということだ。だが現実は患者が主人公の自覚がないまま、共演者である家族や医療従事者が主人公の運命を握ってしまうことも多い(しかも遠慮がちに)。

 

では主人公はどうふるまうべきなのか。主人公は自分の人生のあらすじを決めなければならない。そして周囲の人たち(共演者)とともに人生の最終舞台を迎える準備を進めることだ。そのために共演者にできるだけうまく助けてもらうことだ。家族も医師も看護師もケアマネジャーもみんな共演者である。「患者」という役割を果たすのではなく「主人公」として最後まで生きるのだ。だれかにお任せするのではなく、自分の人生のエンディングをどうしたいのかをできる限りを自分でイメージしておく。主人公がどうしたいかを伝えることができれば、共演者はフォローやサポートがしやすくなる。その伝える力こそ「患者力」である。主人公に患者力があるほど共演者はやりやすい。元気なうちにぜひ患者力を磨いておくことだ。

 

具体的には先に記したようなこと(6.本人が元気なうちに話し合っておきたいこと)を考えて周囲と共有しておくことだ。日常会話の時間がある人は話しておく。そのような機会がない場合は書面にまとめておいて顔を合わせたときに伝えるのがよい。すべてを詳細に決めておくこともない。自分でやりたいこととどうしてもやりたくないことを明らかにしておくだけでもよい。気持ちが変われば書き換えればよい。年配の方は「周りに迷惑をかけてしまうかもしれないから、そんなにわがままも言えない」という方も多いと思う。しかし、言ってみてできないことであればそのとき次善策を考えればよいのではないか。またそういった思いを伝えておくことによって家族にとっても「悔いのない介護」ができることにもつながる。共演者である医療従事者たちはその道のプロである。医療や看護技術の進歩もあるし、医療制度の変化もある。昔はできなかったことも、今はできるかもしれない。

 

人はいずれ死ぬのである。「病院でできるだけの延命治療をしてでも1日でも長生きしたい」というのであれば、それもできる。逆に「延命治療はせずに、最後はできるだけ苦しみがないように自宅で亡くなりたい」というのであれば、その意向に合わせた治療と看護をしていくことができる。病院でやれることと自宅でやれることには違いがある。そもそも病院は「病気を治す」ところであるから、病院にいる限りは最後まで病気と闘う選択をすることが前提となる。しかし「病気とは戦わない」という選択をするのであれば、退院して自宅で過ごし、やれることをしながら人生の最終舞台を迎えることもできる。自宅で死ぬということは「本人が望まない治療は受けない」ことを選択するにもなる。たとえば自宅で訪問看護を利用する場合、「苦しい食事制限はできるだけ避けたい」「生きているあいだに好きなものを食べたい」という願いがあれば、訪問看護師が相談にのり家族とも相談しながらそれをかなえることもできる。

 

家族にとっては「もし自宅で看護をしたら、いざというときに家族だけでは対応できない」という不安もあるだろう。これもパラダイムの変換が必要である。「いざというとき」に何を求めるか。救急車を呼んで病院へ運んで人工呼吸器を装着すれば延命治療のスタートになるかもしれない。それは果たして本人が望んでいたことなのかどうか。ここが自宅で看護する際、いちばん大きな問題になる。「自宅で看取る」という家族の覚悟があれば、「いざというとき」に向けて訪問看護師、医師とで準備や話し合いを進めておくこともできる。

 

病院にいても、自宅にいても人は死ぬときは一人である。自分の人生の最期をどこで迎えるか。主人公(本人)が決め、その意向をかなえるのも共演者(家族)の最後の役割ではないだろうか。

 

―自宅で死ぬということ― 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

 ※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は9月13日にお届けしますのでお楽しみに。

7.「長く入院していても良いことなどない」

だれもが病院にはお世話にはなりたくないと思っている。しかしいくら気を付けていても、自宅で体調が悪くなったり、転倒したりして病院に入院せざるを得ないときはやってくる。そのときに本人や家族が「必ず帰ってくる」と思っているのと「とにかく病院にお任せするしかない」と思っているのではその後が大きく違ってくる。

 

家族にしてみれば「病院にいれば安心」と思うだろう。しかし、高齢者の入院はそれが人生の大きな転機になりうる。先に紹介した私の父親の事例がそうである。脳梗塞で倒れて救急車で運ばれたとき、それから二度と自宅に帰れなくなることとは本人はもちろん、家族である私も思ってもいなかったのである。

 

病院はできるだけ入院患者を抱えておきたくないというのが今の日本の病院経営の本音である。早く回復してもらい、別の患者さんに入院してもらって病院のベッドがうまく回転してくことが経営的には望ましい。そのためには早期にリハビリテーションを行い(これも診療報酬がつく)歩けるようになって自宅に帰ってもらえるのがよい。これは病院にとっても、本人にとってもまったく良いことである。

 

ところが高齢者の場合、そうはいかないことも起こる。なぜなら病院にいると、多くの場合リハビリテーションの時間以外はベッドの上で生活することになる。そんな生活を2週間も続けていたらどうしてもADL(日常生活動作;Activities of daily living)は低下してしまう。もちろん、院内で看護師は早期退院を促進するためいろんな工夫や努力をしている。そのため業務は多忙を極めている。ベテラン看護師に聞くと「以前は時間的にも、もう少しゆったりしていたからベッドサイドにいる余裕があり、リハビリ以外にも患者さんの歩行にお付き合いすることもできました。でもDPC(包括的評価を用いた入院医療費の定額支払い制度:早期退院を促す診療報酬の改定)実施の2003年以降は患者さんに早く退院してもらうために日々の業務をより短時間で終わらせることが求められるようになりました。それもあって看護師がベッドサイドにいる時間を確保することがむずかしくなっています」という声をよく聞く。

 

さらに患者の高齢化にともなって、患者一人ひとりとのコミュニケーションも時間がかかるようになっている。院内での転倒などを防ぐためにも、患者には看護師の目が行き届かないときにはできるだけベッド上にいてもらうことがリスク回避にもなる。そうしてベッドの上で24時間空調の効いたところにいることがかえって患者にストレスを与えることにもなる。さらに院内感染という視点からも「病院にいれば安全」とはけっして言い切れない。患者の免疫力が落ちているときはインフルエンザやO157などのウイルスに感染する可能性もある。「あれ以上入院していたら余計に病気になりそうだ」とは、最近退院された筆者のご高齢の知り合いが退院後におっしゃった言葉である。

こうなってくると本末転倒である。超高齢時代(5人に1人が65歳以上の社会)を迎えるにあたり、「病院は病気を早く治して、できるだけ早く退院するところ」だと利用者もそろそろ認識を改めなければならない。昔のように病院でゆっくり治して家に戻るという時代ではないのだ。病院でできること(キュア:治療)をできるだけ早く病院で実施して、ケア(看護)は自宅で行わなければ、病院は入院患者でパンクしてしまう。

 

だが「自宅で看護される」というのは経験がない本人や家族にとってはかなり不安がある。無理もない。それまで経験したことのない生活になるからだ。それには専門家のアドバイスのもと、生活環境を整える必要がある。それを一家庭だけで行うのではなく「地域全体で行いましょう」という構想が先に述べた「地域包括ケア」システムである。患者・患者家族の視点で、地域包括ケアを知り活用することがたいせつだ。

 

まずは本人が自宅で看護を受けながら生活することが可能な環境かどうかを確認する。必要であれば手すりなどの「介護福祉用具」を自宅に設置したり改修を行う。これにはケアマネジャー(介護支援専門)を窓口として社会福祉士、介護福祉用具専門相談員や福祉住環境コーディネーターといった専門家が相談にのってくれる。介護保険の範囲でできることも多いので大いに活用したい(そのために支払ってきた介護保険でもある)。

 

看護の専門家が訪問看護師である。訪問看護とはその名のとおり看護師が自宅に訪問して、利用者に対して看護を行う制度である。訪問看護に「訪問診療」を組み合わせれば医師と看護師が自宅に来て「治療」と「看護」を行うこともできる。わからないことがあれば近くの「地域包括センター」に行けば相談に乗ってくれる。

 

どうだろう。自宅で訪問看護を受けることへの気持ちのハードルが少し下がったのではないだろうか。在宅ケアとは、入院して「病院任せ」「お医者さん任せ」するのではなく「自宅で最後まで過ごすために、いかに医師や看護師、介護士をうまく活用するか」というパラダイムの変換を行うことからスタートするのである。

 

―自宅で死ぬということ― 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

 ※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は8月23日にお届けしますのでお楽しみに。