人生は選択の連続である。若いころは選択の幅がたくさんあり「今回は選ばなくても次回は選ぶ」といったことができた。しかし人生の最終段階ではそうはいかない。最後の選択になる場合もあるし、その選択すら本人が決められない状態になることもある。
また家族にとってもそれは同じである。「親孝行したいときには親はなし」とはよく言われる言葉だ。しかしそれを実感できるのは残念ながら親を亡くした後であることが多い。平均寿命は延び続けているから現代は本人も家族も余計に老後のことを考える時期も遅くなっているかもしれない。その反面、医療や介護の世話にならないで生きていける「健康寿命」と「平均寿命」の差はそれほど埋まっていない。この期間こそ本人と家族がともに人生の最期を生きていく時間となる。それに目を向けて事前に話し合っておこうというが先に触れた「人生会議:アドバンスケアプラン(ACP)」である。とくに制度上のものでもないので、こうしておかなければならないというものではない。しかし、もしものときのためにぜひ早い時期から定期的に家族間で話し合っておくことが望ましい。
厚労省が出した資料では家族が本人と確認しておくべきことは大きくは5つ。
①本人が大切にしていることはなにか。生きている時間が限られているときどんな最期を迎えたいか。家族や友人のそばにいたいか。痛みや苦しみがないことを選びたいか。少しでも長く生きたいか。好きなことを続けていたいか。どんな治療やケアを受けたいか、など。
②信頼している人はだれか。いざというときに本人に代わって治療やケアについて医療者と話し合ってほしい人はだれか(本人の価値観や考えかたを大切にできる人。家族、親戚、友人、医療従事者など)。そしてそれはなぜか。
③主治医に聞いておくことはなにか。具体的な病名と今後どのような治療やケアが必要かを聞いているか。あとどれくらい生きられるか(余命)を知りたいか、知りたくないか、そしてその理由。
④治癒が不可能な病気になったり、回復がむずかしくなったときにどのような治療やケアを受けたいか。病状が悪化したときにどこで(病院、自宅、施設など)治療やケアを受けたいか
⑤もしものときに信頼できる家族や友人にどれくらい判断を任せるのか。本人が望んだとおりにしてほしいのか、医療従事者と信頼できる家族や友人がそのときの判断を下してよいのか、など。
まとめて書いてしまうと簡単だが、実際はそう簡単なことではない。むしろそれまでの家族関係によってはタブーとされていることに触れてしまうかもしれない。しかし人生の最期なのだからこそ触れなければならないとも言える。
だが私自身、父を見送るプロセスを振り返ってみてもほとんどできていない。入院や転院を繰り返すなかで何度かここに書かれたようなことを会話したことはある。それは時間の経過とともに変化もしていった。「なんでこんなことになったのか」「いつ家には帰れるんだ?看護師さんもお医者さんもはっきり答えてくれないんだよ」「この治療で本当に治るのか?」「母さんやお前に迷惑をかけて申し訳ない」「昔の仕事仲間だった〇〇さんに会いたいなぁ」「病院だと何食べてもおいしいと感じないよ」「俺はもう死ぬのか?」「(食事介助のとき)お前、俺にご飯を食べさせるのがうまくなったな(笑)」「俺は痛いのはいやなんだ。死ぬときはポックリ逝きたいよ」。そしてそんな会話もだんだん減り、意思表示もできなくなって最期を迎えた。
危篤の連絡が病院から入り駆けつけたとき父親は最期の命の灯をかすかに残すのみであった。心肺停止になったときお医者さんは心肺蘇生を試みてくれたが、私はそれを見て父親の言葉を思い出して「先生、ありがとうございます。もうけっこうです」と伝えた。
いったん病気になり入院をしてしまうと、ベッドサイドで人生の最期に向けての話は生々しすぎてやりにくいというのが現実だ。できれば本人も家族も元気なうちに話をしておきたいものである。最近はテレビ番組や新聞の特集記事などでも人生の最期や生き方を扱ったものも多い。お正月やお盆で顔を合わせたときなどにそんな話ができるようにテレビ局や新聞社にも放送時期や掲載のタイミングをぜひ検討してもらいたいと思う。
厚生労働省 「人生会議」に関連するホームページ https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_02783.html
参考文献:木澤義之 神戸大学病院緩和支持治療科特命教授 「平成28年厚生労働省委託事業 人生の最終段階における医療体制整備事業 これからの治療・ケアに関する話し合い」
―自宅で死ぬということ― 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)
※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は8月9日にお届けしますのでお楽しみに。