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2.いつから準備は必要なのか

とは言うものの、実際に年老いた親を自宅で看取ると考えると本当にそんなことが可能なのかと思ってしまう人がほとんどではないだろうか。
ここからは私の体験である。私の両親は京都で二人暮らしをしていた。兄は関東に、私は大阪にそれぞれ家庭と仕事を持ち忙しい日々を送っていた。父親が80歳を超えて脳梗塞を起こして救急車で運ばれて入院。そこから86歳で亡くなるまで父が家に帰ることはなかった。転院→老健→脳梗塞→入院→転院→特養→脳内出血→入院→転院→転院→転院、そして永眠。
特養でお世話になっているとき、当時高校生だった私の長男がお見舞いに行くと父親はうれしそうな顔をしながら「おじいちゃんが今度退院したときは、もう一度キャッチボールをしよう」と話していた。父親は家に帰りたかったのだ。しかし正直なところ、私はもう父親が自宅に帰ってくることはないと思っていた。もしも父親が戻ろうものならだれがいったい面倒を見るというのだ。母親もすでに80歳を超えており足腰が弱っている。自分は大阪での生活を変えることはできない。父親には悪いが我慢してもらうしかない、そんな気持ちだった。もちろんできることはやったし、休みのたびに見舞いにも行った。そして父親は最後の転院をした2週間後息を引き取った。私はまだまだ父親は生きると思っていた。転院をしながらも容体が落ち着けば、また特養に戻れるのではないか、あと数年は生きてくれるのではないかと楽観的な気持ちでいた。当たり前だが肉親を亡くすという経験をしたことがないのだから現実的にとらえることを自然に避けていたのだろう。
父親が亡くなってしばらくは「やれることは全部やった」と思い、後悔はまったくなかった。今度は一人暮らしになった母親をサポートする番だ。相続などの手続きをしながら母親と話をする機会が断然増えた。そのなかで母親は何度となく「私はできるだけ家で過ごしたい。お父さんみたいに病院や施設を転々とするとあなたにも迷惑をかけることになるし、私もご近所さんと会うこともできなくなる。できるだけ家でがんばって最後はコロリとお別れしたい」と言うのだ。それを聞いて私は父親が私の長男に「退院したらキャッチボールをしよう」と言っていたことを思い出した。父親は帰りたかったのだ。しかしそれを私には言えなかったのだ。なぜなら私がそれを聞きたくないそぶりを見せていて、父親にもそれがわかっていたから。そこから私の胸はうずき始めた。思い起こすと父親は帰りたいサインをいろんなところで出していた。そしてそれを私はことごとく見て見ぬふりをしていたのだ。
そこから私は母親にはそんな思いをさせたくないと思い始めた。昭和初期に建てられた実家は段差が多く改築・増築で生活の動線も悪かった。広い庭も父親が元気なときは家庭菜園でいろんな野菜や花を育てていたが手入れをできなくなっていた。将来的に私が戻ることも見据えて思い切って土地を半分売却して、バリアフリーの家に建て直した。そこで今、母親は一人暮らしを続けている。
「そこまでしたならなぜ同居しないのか」という人もいる。こう書くと怒られるかもしれないが、大学を卒業してから親と離れて暮らしている私にとって、もう一度親といっしょに暮らすというのはハードルが高い。お互い生活のペースも違うし、親子といえども価値観も違っている。しかし母親の人生を尊重はしたい。幸いなことに母親はいろいろ体に悪いところはあり要介護3認定ではあるが、足腰が弱っている以外は現時点ではヘルパーさんの力を借りてなんとか一人暮らしできている。母親にはこれからもできるだけ家で過ごしてもらい、家で看取りたいと思っている。準備をするタイミングがあるとするなら親がまだ一人暮らしできている今だ。


―自宅で死ぬということ― 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ) 


 ※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は6月14日にお届けしますのでお楽しみに。

昭和の赤ちゃんとお母さん

佐野さまからご提供いただいた思い出の1枚。

お母さまの髪型が昭和です・・・
そういえば母は昔、寝る前には頭にカーラーを巻いていたなぁ~
出かける前にはホットカーラーを巻いていたなぁ
と懐かしく思い出されます。

1.再び家で死ぬ時代がやってきた

私は昭和37年に生まれた。自宅で祖母が老衰で亡くなったとき、私は高校2年生だった。当然のように家に葬儀屋さんが来て、玄関に敷物が敷かれご近所さんが訪問者の受付をしてくれた。家の近くでもそのようなお葬式はたびたびあったし、霊柩車が街中を走るのを見かけると当たり前のように親指を隠して握った。しかし、いつからか近くに儀典会館ができて、家でお葬式をやるという風景を見ることがなくなった。マンションが増えたこともその理由の一つであろう。同時に「家で死ぬ」ということ自体がめずらしくなってきている。核家族、共働きが当たり前になり、高齢者を家で看取るということも減ってきた。慢性期疾患患者、認知症患者が増え家で療養をすることができなくなると、高齢者は老人保健施設や特別養護老人ホームで晩年を過ごすことが増えてきた。そして特養に入れば、人生の最後をそこで迎えるというケースが当たり前のようになってきている。


しかし、超高齢時代が間もなく到来する現在、病院や施設のベッド数、入居枠が不足してくることが予測されている。厚生労働省では2003年(平成15年)から病院は「早期回復の促進をする場所」として、入院期間の短縮化を図ってきているし、2018年の診療報酬の改定では2025年問題を見据えて「地域包括ケア(病院と地域が連携して患者を病院から地域に戻すシステム)」の準備を進めている。そうしなければもう病院や施設はパンクしてしまうからだ。


昭和前半は「家で生まれて家で死ぬ時代」
昭和後半は「病院で生まれて家で死ぬ時代」
平成は「病院で生まれて病院で死ぬ時代」であった。
令和は「病院で生まれて家で死ぬ時代」になっていくはずである。


そうなったときに必要なのが「在宅ケア」、家で患者をケアすることである。
家で死ぬ時代が再び戻ってくる。しかし、社会の仕組みは昔とは変わっている。昭和の時代にはなかった介護保険制度があるし、各種施設もある。それらをうまく活用することが必要になってくる。そのためには医療や看護を医療従事者に任せきりになるのではなく、医療従事者とともにケアにかかわっていくことが求められる。


病院に家族を預けているとどうしても「先生のご判断にお任せします」というスタンスになってしまいがちである。もちろん医療従事者はその道のプロフェッショナルであるからそれぞれの立場でいちばんよい判断をされるであろう。しかし、患者として、患者の家族としてどのように死を迎えるかを医療従事者に任せっきりにしてよいのだろうか。それを再び考える時代になるのである。医療はどんどん進化している。命を伸ばす医療技術はこれからも発展していくことは間違いない。その分だけ人間も「どのように死ぬか」を考えて自分たちに必要な医療を選択していく時代になるのである。


―自宅で死ぬということ― 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ) 


 ※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は5月24日にお届けしますのでお楽しみに。

筆者紹介

小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)
一般社団法人 看護職キャリア開発協会 国家資格キャリアコンサルタント。
「生きるを活かす」ライフ・キャリア・サポーター。


<プロフィール>
株式会社リクルート入社後、就職情報事業で広告制作、副編集長を経験。その後、医療系出版社にて編集部長、管理部長、新規事業部長をへて現職。看護部門の組織活性化や職員のキャリアカウンセリングを行う。
現在は、おもに訪問看護を活用して人生最期のキャリアの総仕上げをいかに充実したものにできるかを研究、サポート、コンサルティングしている。

昭和の海水浴

昭和の海水浴のお写真を、奥村さまからご提供いただきました。

水泳キャップが懐かしい・・・

みなさんも、家族で出かけた楽しいひと時がよみがえってきそうな3枚ですね!

貴重なお写真をありがとうございました!

昭和初期から時代は流れて

N.Tさまから時代の流れを感じる数枚の写真をご提供いただきました。

下は、おじいさまの出生時のご様子です。

 

次は、お父さまのスキー姿。

そしてさいごは、ご本人の子ども時代。

お父さまが撮影されたワンショットだそうです。

時代の流れを感じる写真の数々。ご提供ありがとうございました。

湾岸で働く男たち!

大阪市在住の吉川さまよりご提供いただいた、昭和の湾岸で働く男たち!

昭和40年代の風景だそうです。海沿いで育った方々には昔がよみがえる懐かしい一枚だと思います。
ご提供ありがとうございました。

コンテスト受賞写真!

本サイトをご覧いただいている杉山さまよりご提供。

1970年頃の写真で、旦那さまの弟の奥さんの1歳になるかならないかくらいの時の写真だそうです。
コンテストに出して入選したという貴重なお写真!19ネジで巻くと動くヒヨコのおもちゃ、ありましたね〜。
懐かしい!!杉山さま、貴重なお写真ありがとうございました。

時代の変遷

いつもこのサイトをご覧いただいている秋山さまから、8枚のお写真を頂きました。


上は、昭和3年当時母(中央)「高崎専売公社(たばこ)」の職場慰安旅行のお写真。
 


こちらは昭和8年、高崎にて。
お母さまのご兄弟姉妹たちとご一緒に。左端がお母さまだそうです。
 


昭和12年正月元旦、高崎の国鉄高崎線の高架橋上にて。
 


昭和15年、東京の街角にて。
お母が街頭でスナップ写真を撮られたそうです。
洒落たお召し物が多くの人の目を引いたのでしょう。

 

こちらは昭和24年、埼玉県神保原でのご家族写真。秋山さまは1歳半で、お母に抱っこされているようです。

 

昭和27年、高崎の叔父さまのご自宅にて。
秋山さまは真ん中。先のお写真よりもずいぶん大きくなられていますね!お母さま、お兄さまと、妹さん、叔母さまと従妹さんとご一緒に。

 


昭和31年、埼玉県の狭山に当時あったユネスコ村に遊びに行かれた時の家族写真。
ご家族そろってお幸せなご様子です。

 


昭和34年、群馬県榛名山にて。
お兄さまと従妹さんたちと遊びに行った時のお写真。
背景は榛名湖、榛名富士だそうです。

 

8枚のお写真に時代の流れを感じ、自らの成長と重ね合わせて懐かしめる貴重なお写真の数々です。

大切な思い出が沢山詰まったお写真をご提供いただいた秋山さま。ありがとうございました。