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22.自宅で死ぬという選択をするためのガイド②

要介護認定を受けるには

 

では次に具体的に介護をはじめるときの話をしよう。65歳になると介護保険の加入者として「介護保険被保険者証」が交付されるがこれだけは介護サービスを受けることはできない。医療保険や介護保険を使って在宅ケアを受けるには「要介護認定」を受ける必要がある。認定は本人が住んでいる市町村の窓口で受け付けられる(窓口の名称はエリアによって違うので調べよう)。申請は原則、本人または家族であるが、居宅介護事業者や地域包括支援センターで代行申請もしてもらえる。

 

要介護認定には2回の判定がある。市町村に申し込むと1次判定(担当者による聞き取りと「主治医意見書」による)。2次判定では1次判定の結果をもとに介護認定審議会が審査を行い、「要介護度」を判定する。これによって「どのような介護が、どの程度必要か」が決められる。申請から30日以内に認定結果と介護保険被保険者証が郵送される。

 

認定の結果は「要支援1~2」「要介護1~5」「非該当(自立)」の3種類。介護保険サービスを受けるときはこの要介護認定の区分により給付の限度額が決まる。令和元年(2019年)の支給限度額は以下のとおり(地域、受けるサービスによって変わる場合あり)。

 

要支援1 5万320円

要支援2 10万5310円

要介護1 16万7650円

要介護2 19万7050円

要介護3 27万480円

要介護4 30万9380円

要介護5 36万2170円

 

要介護度のイメージとは

 

要介護度別の定義は特にないようだが、イメージとしては次のようなものである。

 

要支援1 日常生活はほぼ自分で行える。支援を受けることで要介護状態になることを予防できる。

要支援2 要支援1よりも立ち上がりや歩行などの運動機能に若干の低下がみられる。

要介護1 自分の身の回りのことはほぼできるが、部分的に介護が必要な状態。

要介護2 日常生活能力や理解力が低下し、身の回りのことについても介護が必要な状態。

要介護3 食事や排せつなどが自分でできなくなり、ほぼ全面的に介護が必要とされる状態。

要介護4 要介護3よりも動作能力が低下し、日常生活全般に介護が必要な状態。

要介護5 要介護状態においてもっとも重度で、あらゆる場面で介護が必要となり意思の疎通も困難な状態。

 

この要介護度に応じて医療保険や介護保険を使って介護サービスを受けることができるのだが、そのためには「ケアプラン」というものをつくる必要がある。ケアプランは自分でもつくることは可能だが、制度に関する知識が必要なので通常は専門家に依頼する。「要支援」の場合は「地域包括センター」、「要介護」の場合はケアマネジャーのいる居宅介護支援事業者がその依頼先になる。

 

このとき納得できるケアプランをつくるためには、しっかり本人の意向や介護者の意見や希望をまとめておくことがたいせつである(「8.自宅で死ぬための『患者力』をつける」、「10.良い訪問看護ステーションの選び方」参照)。

 

介護生活は長くなることもあるので、その状況によって受ける介護サービスも変えていけばよい。

 

いちばんたいせつなのは本人とその家族がどんな死を迎えたいかである。それをいっしょにかなえてくれる訪問看護ステーションや医師に巡り合うためには「選ぶ目」を持っておきたい。

 

自宅で死ぬということ- 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は4月10日にお届けしますのでお楽しみに。

21.自宅で死ぬという選択をするためのガイド①

準備をするのに早すぎることはない

 

ここまで10人の事例を挙げてきた。介護はとつぜんやってくることもあればジワジワ来ることもある。介護なんてまだまだ先だと思っていても、親も自分も確実に年をとっていく。しかも同居しているケースは少なく、夫婦共働きも当たり前。もしも急に親の介護が必要となったら何から何をどうしたらよいのかわからなくなってしまうだろう。なので、まず心を決めることが必要だ。「自宅で死ぬことを第一選択として、できる限りまで自宅で生きて、どうしようもなくなったときだけ病院や施設にお世話になろう」と。時代は間違いなくそういう時代になっている。

 

そう考えるとやるべきことは見えてくる。まずは準備をすることだ。親御さんのことであれば、本人と話し合うことから始める。難しいと思うかもしれないが、10人の事例でもほとんどの人が「自宅で死にたい」と思っている。病院や施設で死にたいと思う人は少ないのだ。もちろん治療は病院でなければできないこともある。もしものときのことを本人と意思疎通できるうちに話をしておくことが望ましい(「5.本人が元気なうちに話し合っておきたいこと」参照)。そのためのツールとして、たとえば「もしバナゲーム」というカードゲームがある。このゲームには人が重病や死に面したときに「人がよく口にする大事なこと」が書かれていて、それをゲームとして使いながら「どのようにケアしてほしいか」「だれにそばにいてほしいか」などが共有できる。

 

実際に私も母親とやってみた。いつ実施できるのかチャンスをうかがい、ずっと持ち歩いていた。そして食事に出かけたときに料理が運ばれてくるまでの15分ほどに「お母さん、ちょっとゲームしてみない?」と言いながら進めてみた。86歳で年相応に認知機能がやや衰えが見えるのでスラスラ進むことはなかったが、このゲームをしなければ聞き出せなかったようなことがわかった。たとえば「いちばん心を許している友だちはだれか」などである。そんな話題はふだんはなかなかできない。大切なのはこれまでしてこなかったテーマについて話をすることなのである。死に関する話は日常の会話の延長線上にはないからだ。本人もそれまで言葉にして話したことがないと躊躇するかもしれない。当然のことだろう。しかし、いったん口にするとそこから思考が深まる。そこからコミュニケーションの積み重ねをはじめることができるからいいのだ。このゲームはアマゾンで購入できる。

 

近くの訪問看護ステーションを訪ねてみよう

 

実際にまだ介護生活がスタートしていないときに役所に話を聞きに行くのはハードルが高いかもしれない。そんなときはまずは近くの訪問看護ステーションに行ってみることをお勧めする。街中を注意して見ていれば訪問看護ステーションの看板があるはずだ。もしくはネットで近くの訪問看護ステーションを検索してみよう。

 

切羽詰まってからよりも余裕のあるときのほうがよい。親御さんと離れて暮らしている場合は帰省する時期に計画を盛り込んでみる。「まだ具体的ではないのですが、お話を聞かせてもらうことはできますか」と最初に聞いてみるのがよいだろう。そこで相談に乗ってもらえないようなところであれば他を当たろう。

 

訪問看護ステーションは看護師さんがつねに利用者宅に訪問をしているので、相談時間を確保してもらうには事前に連絡をしてから訪問するとよい。

 

何から話せばよいのか。次のようなことを事前にまとめておこう。

  • 利用者はだれか 年齢、性別、要介護認定を受けているか
  • 利用者は現在、病院に通っているか、治療中の病気やケガがあるか
  • 利用者の状態について 要介護認定をまだ受けていない場合は要介護認定と同じポイントで話すのが良いだろう。

・体はどれくらい動くか(身体機能・起居動作):麻痺しているところはないか、関節は動くか、寝返りは打てるか、言動はどうか、聴力はどうか。

・食事やトイレはどうか(生活機能):ほかにも「上着の着脱」「外出は可能か」など。

・自分の名前は言えるか(認知機能):生年月日や今いる場所や住所が言えるか。

・社会生活が送れているか(精神・行動障害):急に泣いたり笑ったり感情が不安定ではないか、大声を出すことはないか、など。

・お金の管理などでできるか(社会への適応):飲み薬を一人で飲めるか、買い物に行けるか、のような社会生活を送れるかどうか。

 

  • 同居人はいるか

・いる場合は、利用者との関係、年齢、性別、就業をしているかどうか。

・いない場合は、近くで連絡をとれる人はだれか、利用者との関係、など。

 

もし、まだ上の状況が把握できていない場合は、まずは本人の様子を見て確認してみよう。

 

-自宅で死ぬということ- 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)
※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は3月27日にお届けしますのでお楽しみに。

20.訪問看護を利用し、最後はホスピスでの死を選んだ男性

Tさん 年齢:70歳 男性

病歴:大腸がん

家族:妻と2人暮らし

 

Tさんは60代前半に大腸がんを患い大腸ストーマを造設した。その後経過は良く元気に日常生活を送ることができるようになった。しかし2年が経つころストーマの周辺が皮膚トラブルを起こすようになり、週に一度、ストーマ交換をしていた妻の負担もだんだん大きくなってきた。それ以外にはTさんの健康上には大きな問題がなく介護保険は使っていない状態であった。

 

妻は自分一人でTさんのことを見ているのも心配になり訪問看護ステーションに相談をした。在宅医とも相談をして、まずは週1回の訪問看護からスタートし、ストーマ交換と周辺の皮膚の状態のチェック、体調管理を行うことになった。また妻の負担を減らし気分転換をはかるためにTさんにはホスピスに1週間のレスパイト入院をしてもらうことにした(レスパイト入院とは家族の息抜きをするために在宅看護・介護のできない患者を一時的に入院させることである)。それによって妻はいったん元気になることができたので、レスパイト入院の有効性を妻も訪問看護師も感じることができた。

 

またTさんもそれまではホスピスに対して具体的なイメージをもっていなかったようだが、この入院を体験してからはホスピスでの生活もイメージできたようであった。

 

とはいうものの、Tさんは自宅での生活に満足をしており、そのままこの生活が続くことを望んでいた。ストーマ交換は「3日に一度」に頻度を上げていたので、それに伴い訪問看護も回数を増やしていった。訪問看護師は妻の様子を見ていると、今後について話し合う必要性を感じた。そこでTさん、妻、訪問看護師、在宅医で「どのような形で生活を続けていきたいか。お別れのときはどこで迎えたいか」を話し合う機会を設けることにした。いわゆる「人生会議(Advance Care Plan:ACP)」である。

 

妻はストーマ交換だけでなく、今後Tさんの症状が悪化した場合に自分一人で看護できるのかについて不安を持ち続けていることを告げた。Tさんも「自分になにかあったときに家族が不安のない場所にいたほうがよい」という気持ちが強かった。それに対して妻は「自分には自宅で看取ることに自信がない」と言い切った。Tさんは自宅で最期を迎えることを望んではいたが、妻の気持ちもおもんぱかった。じつはTさんは若いころ妻に迷惑を掛けた出来事があった。「これまで妻にはたいへんに世話を掛けてきた。これ以上、自分のために妻に負担を強いることはできない」と訪問看護師に語り、みずからの意志でホスピスに入ることを決めた。

 

そしてホスピスに入って数か月後、Tさんは妻に看取られながら静かに息を引き取った。

 

在宅医療の本質は「自宅で死ぬこと」ではなく「死ぬまで自宅で生きること」である。ホスピスで亡くなったTさんはそういう意味では「在宅医療」で最期を迎えたわけではなかった。しかし、Tさんは自分と家族(妻)との生活を考えて「在宅医療」と「ホスピス」を使い分けたのである。老老介護も課題となっている昨今、できるところまでは自宅で生きて、介護者の負担を考えて最後は医療機関を使うというのはますます必要な観点になっていくだろう。5回目で書いた「『施設ケア』と『在宅ケア』を組み合わせる」の一つの事例である。

 

-自宅で死ぬということ- 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)
※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は3月13日にお届けしますのでお楽しみに。

 

19.闘病を病院で終え自宅で家族と最期を迎えた男性

Oさん 年齢:60歳 男性

病歴:肺がん

家族:妻、長男(30代)と3人暮らし

 

Oさんは50代で肺がんを発症した。治療を受けながら仕事を続けたが入退院を繰り返した。それでもなんとか定年まで仕事を続けることができた。それがOさんの目標でもあったのだろう。定年を迎えた後は緊張の糸が切れたかのようにOさんは体調が悪くなった。

 

病院ではこれまでできる限りの治療を受けてきた。末期がん患者として再び入院したOさんは病院のベッドで酸素吸入をしながら過ごす日々となった。医師は妻に「もう病院でできることはありません。最後はご自宅でお過ごしになってはいかがでしょうか」と告げた。それは妻にとっては最終宣告のように聞こえた。病院においては「病気で死ぬことは敗北」のように医師が感じているように思えた。ナーバスになっていた妻には「もう夫にはこれ以上の治療はないのだ」と思うと突き放されたような気がした。しかし、寄り添ってくれた看護師が「患者として病院におられるより、家族の一員としておうちに帰られたほうがご本人も喜ばれるかもしれませんよ」と言ってくれたことに気持ちが落ち着いた。病院にいたら患者としてもう死を待つだけだが、家に帰ればまだ家族としてやれることがあるのではないかと考えが変わり始めたと言う。

 

医療の場所にいる限り「患者」であり、家族は治療に関してはどうすることもできない。「水が飲みたい」と言っても飲ませていいかどうかを看護師に聞かないといけないような気持になる。しかし、もし家に帰ればまずは「家族」であり、夫が望むことは夫と自分の判断でできる。夫はこれまで病院で医師の指示に従いがんばってきたのだ。もう病院でできることがないのであれば、闘病はやめて自宅でゆっくり過ごさせてあげようと妻は決意した。30代の息子は仕事が忙しく病院への見舞いはなかなか行けなかったので父親が自宅に戻ってくることを喜び歓迎した。

 

Oさんも自宅に帰れることを喜んだ。家に帰るとそれまで病院では口にしなかった家族への感謝の言葉や、自分が亡くなった後の保険のことを話し始めた。もちろん妻や息子に不安がなかったわけではない。そこで訪問看護師は1日2回の訪問をして「Oさんの看護は私たちに任せてください。奥さまはそばにいてOさんにしてあげたいことをしてください」と伝えた。夜間にOさんの呼吸に異変を感じたときは遠慮なく電話をするように言いサポートをした。自宅に戻って数週間後、Oさんの意識は亡くなり眠るように穏やかに旅立った。最後はOさんがいちばん好きだったゴルフウェアを着て荼毘(だび)に伏した。

 

妻は言う。「入院していたときは、いつ亡くなってしまうかと不安でした。でも自宅に帰ってからいつでも声を掛けられたし、様子を見ることができたからだんだん覚悟ができてきました。死を受け入れる心の準備ができていたのかもしれません」と。

 

病院は病気を治すところであると再認識すると、闘病にがんばる入院生活はどこかで終止符が打てることもある。そこからは自宅に戻って家族としてやれることが残っているのであればそれを選択してもよいのではないだろうか。

 

-自宅で死ぬということ- 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)
※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は2月28日にお届けしますのでお楽しみに。

18.孫や愛犬たちに囲まれて自宅で最後の2週間を過ごした50代男性

Nさん 年齢:54歳 男性

病歴:スキルス胃がん

家族:母親、妻、長男夫婦と孫(3歳)、愛犬、近所に次男夫婦と孫(0歳)

 

Nさんは工務店で働く職人であった。早くに結婚したので50代で息子2人は独立し孫も2人いた。長男家族とは同居し次男家族も近くに住んでいたので休日にはみんなでバーベキューを楽しむなど幸せに暮らしていた。ところがそんなNさんに突然病魔が襲った。病院でスキルス胃がんが見つかったとき、すでにステージ4であった。病院でできる治療はすべて行ったうえでNさんは「最後は家族と過ごしたい」と自宅に戻ることになった。

 

昔からNさんは風呂が大好きであった。そこで「親父を最後に温泉に連れて行ってやりたい」と長男は希望したが、Nさんは入院中の検査や治療で体力も落ちておりそれは実現できなかった。しかし長男は「それなら自宅で」と父親を抱え自宅の風呂に入れた。Nさんはそれをたいへん喜んだ。息子たちは若いころはヤンチャで父親を心配させたこともあったらしいが、それぞれ成人し独立して家族をもってからはそのぶん父親を敬うようになったという。

 

Nさんは体力こそ落ちていたが意識は清明であったので家族とはコミュニケーションがとれた。まだ病気のことなどわからない孫たちは大好きな“じぃじ”の布団の周りから離れないばかりでなく乗っかかったりした。また、かわいがっていた愛犬のチワワも枕元に来てはNさんの顔をペロペロ舐めた。闘病中のNさんにとってはけっして負担にならなかったとは言えないだろう。しかしNさんは嫌な顔ひとつせずにそれを受け入れ喜んだ。

 

在宅医と訪問看護師は週3回の訪問をして、留置されているPCAポンプ(自己調節鎮痛法:患者自身が必要なときに鎮痛剤を投与できる方法)のチェックや体調の管理、保清を中心に行ったが、それ以上に心のケアが必要であった。50代で突然の発症であり、Nさんはなかなか現実を受け止めることができなかった。自分のことももちろんだが家族の将来に不安を覚えていた。訪問看護師はアロママッサージをしながらその話を聞いた。家族の前では明るく振舞っていたNさんだったが、訪問看護師の前では本音を漏らした。とくに自分によく懐いてくれている孫たちの姿を見ると「この孫たちと別れるのがつらい」と涙を流した。いっぽう家族も同様に心のケアが必要であった。訪問看護師はNさんだけでなく家族とコミュニケーションをとり不安を聞いた。高齢の母親も自分より先に息子を見送ることはつらいことであった。みんながつらい思いを抱えながら過ごしていた。

 

こんなとき家族だけであればコミュニケーションがむずかしかったであろう。訪問看護師が入ることによってそれぞれが本音を漏らすことができた。Nさんが退院し自宅に帰ってきてから、家族は「いつ何が起きるかわからない」という不安で夜も眠れないこともあったようだ。しかし訪問看護師がその不安を聞き出し「いざとなればいつでも駆けつけるから大丈夫」と話すことにより安堵の表情を見せたという。

 

やがてNさんは意識がなくなり、家族に囲まれながら旅立った。家に帰ってから約2週間ほどであった。家族全員でお別れをした。納棺前には孫たちも“じぃじ”の体を拭いた。愛犬も最後までNさんの布団から離れなかった。病院で最期を迎えれば、孫はともかくペットがベッドサイドに来ることはむずかしかったであろう。訪問看護師は言う。「Nさんの病状はかなり進行が速かったが、おうちに帰りご家族や愛犬がすぐ近くにいることが癒しになっていると感じた。自宅に帰ったことで間違いなくNさんの寿命は数日かもしれませんが延びたと思います」と。

 

かけがえのない家族がいる自宅に戻ったNさん。そして忘れてはいけないのはペットの存在である。自宅で亡くなることは家族にとっても病院ではできない看取りや見送りができることがあることを教えてくれる事例である。

 

-自宅で死ぬということ- 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は2月14日にお届けしますのでお楽しみに

17.「後悔したくない」と娘が在宅ケアを選び看取られた女性

Eさん 年齢:90歳 女性

病歴:誤嚥性肺炎の繰り返し

家族:娘夫婦、孫と同居

 

Eさんは数年前から嚥下機能が落ちて誤嚥性肺炎のために入退院を繰り返していた。最後の入院となったときには食欲もなくなり医師からは胃ろうを勧められた。入院中は鼻からの経管栄養であった。Eさんは認知機能の衰えはあったが意識ははっきりしており「もう年なのだから胃ろうや点滴で生きながらえるのは嫌だ」との意思ははっきりしていた。その後、入院を続けるなかでEさんは入院生活に不安を訴えたり、せん妄のために病院と自宅を間違ったりするようになった。付き添っていた娘もその様子を見て「家に連れて帰る」との気持ちを固めた。在宅医と訪問看護を使って在宅ケアをすることを決めた。退院時は鼻からのチューブは外さないままであった。

 

娘は「母親と過ごす最後の時間を後悔したくない。できるだけのことをしたい」と訪問看護師に訴えた。訪問看護師はEさんの状態を見ながら、もしかしたらまだ口から食事ができる可能性があるのではないかと感じた。そこで歯科医、在宅医と相談してVE(嚥下内視鏡検査:嚥下力があるかどうか調べる検査。自宅でできる)を行った。結果は「悪くない。経口による食事も可能」であった。娘は喜び訪問看護師と相談のうえ、経口による食事を始めることにした。娘はもともと料理が得意でありEさんも娘の手料理を食べることが好きであった。娘は母親の好みにあった茶碗蒸しや煮物、白身の魚を使った料理など心を込めてつくった。娘の思いも伝わったのかEさんは驚くほど食欲を回復させて食事ができるようになった。鼻からのチューブも外すことになった。

 

しかし、1か月ほどするとだんだん食欲も落ちてきた。再び鼻からチューブを入れることは本人も娘も望まなかった。食べることも飲むこともできなくなった母親を見て娘は「お母さんがかわいそう」と心を痛め、点滴でなんとかならないかと在宅医に要望した。しかしEさんの血管はすでに点滴の針も入らなくなっていた。訪問看護師は在宅医と相談して皮下注射による点滴を行った。その5日後、Eさんは静かに息を引き取った。退院から約3か月が経っていた。

 

もし、Eさんが退院をせずにそのまま入院を続けていたらどうなっていたであろう。消化機能がある限り鼻からの経管栄養注入は続けられ、消化機能が消失すれば点滴による栄養注入に移ったのではないかと推察される。そうすれば3か月より長く生命は維持できたかもしれない。しかし、退院したときのようにEさんが再び食欲を見せることもなかっただろうし、娘のつくった料理を味わうこともできなかっただろう。その期間はわずか1か月ほどではあったが娘は母親のために一生懸命料理をつくり、母親の食欲回復を喜び、喜ぶ顔を糧にまた料理づくりに情熱を注いだ。「後悔をしたくない」という娘の気持ちはその1か月があったことで満たされたことであろう。

 

目の前で親が弱っていくのを見るのはつらい。食欲がなくなりはじめたとき「点滴しなくても大丈夫ですか」と娘からの問いがなされたので在宅医は皮下注射による点滴を行った。「食べられなくなったら点滴」というのはかつての常識だった。そのため患者や家族にもその固定観念があるのだろう。しかし今は「いつまで点滴を続けるか」は医師によってもその価値観は変わりつつある。娘も点滴をされた母親を見て「これをしても母親が楽になるわけでもないんですよね」とポツリとこぼしたという。皮下注射による点滴を始めてからの5日間が娘にとってはEさんとの最後のお別れの時間になった。在宅医療は「家で最期を迎えたい本人」はもとより、「後悔なく送り出したい家族」にとっても大切な時間をもたらすということを教えてくれる事例である。

 

-自宅で死ぬということ- 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は1月24日にお届けしますのでお楽しみに

16.無理な治療はせず自宅で「枯れていくような自然な死」を迎えた女性

Dさん 年齢:98歳 女性

病歴:とくになし。

家族:夫とは死別。息子夫婦(60代)と2世代住宅の1階で自立して暮らす。

 

Dさんは98歳であったが、大きな病気もせずに元気に暮らしていた。息子夫婦とは2世代住宅だがキッチンやトイレなどそれぞれの生活スペースは独立しており、ほぼ自立した生活をしていて定期的なデイサービスにも意欲的に通っていた。買い物も自分で楽しみながら出かけることができた。

 

ところがその年はたいへんな酷暑で、さすがのDさんも夏バテのせいか食欲が落ちデイサービスに行くのもおっくうになり家から出なくなった。心配した息子はケアマネジャーに連絡。ケアマネから訪問看護ステーションに相談があった。看護師が訪問したところ、たしかに元気はなくしていたが、98歳という年齢を考えると年相応とも受け止められると家族に伝えた。しかし、これまでのDさんの元気な生活状態を見ていた息子夫婦は何らかの治療が必要ではないかとの思いをぬぐい切れなかったようだ。数日後に「食が細くなっている。点滴などする必要はないのか」と訪問看護ステーションに連絡があった。看護師は訪問し体の状態を診たうえで「高齢からくる衰弱と考えられる。無理にでも入院をして検査をすればどこか悪いところは見つかるかもしれない。しかしこの年齢で治療の判断を医師がするかどうかはわからない。在宅医の訪問を受けてから入院の判断をしてはどうか」と伝えた。Dさんに入院の意志を確認すると「年も年だから体調が悪いのは仕方ない。入院はしたくない」とのことだった。在宅医の診断も「点滴などせずに、食べたいときに食べたいものを食べ、飲みたいものを飲めばよい」であった。

 

こうしてDさんの在宅ケアが始まった。訪問看護は週に1回で、おもにDさんの体の状態を見ることが訪問目的となった。本人はオムツの着用は強く拒否。排せつは自分でするという強い要望をもっていたので看護師もその意志を尊重した。

 

ここから家族の不安が渦巻く数週間となる。本人が望んだとはいえ息子夫婦は自宅にいる母親の様子が気になって仕方がない。食欲がかつてのように戻らないが大丈夫だろうか、トイレに行くときに転倒しないだろうか、と心配になる。夜にそっと部屋をのぞきにいくこともあり睡眠不足に陥ったりもした。そんな息子夫婦からの要望で訪問看護は週に2回になった。Dさんの看護というよりも家族ケアの側面が強かった。「母親が急に亡くなるようなことはないだろうか」という不安に駆られて緊急訪問の要請があったこともある。「やはり入院させたほうが良かったのではないか」と気持ちは揺れ動く。看護師はその気持ちに寄り添いじっくり話を聞いた。Hさんには認知症はなく意識もはっきりしていたので、ときにはベッドサイドで息子と3人で昔話をした。2人で面と向かうとできない話も看護師が入ることで素直にできることもある。息子からDさんへ感謝の言葉が伝えられDさんがうれしそうな顔をしたこともあった。

 

秋が訪れるころDさんの体力は落ち、自力でトイレまで歩くことが困難になった。そのためポータブルトイレをベッドサイドに設置した。この時期にはヘルパーと看護師が日替わりで訪問しトイレの介助や清拭を行った。看護師はリラクゼーションのために足湯を提案して最後までDさんの快適な生活を支援した。

 

やがてDさんが寝ている時間は徐々に増えていきポータブルトイレも使えなくなってきた。Dさんはオムツ着用を承諾した。しばらくして、Dさんの呼吸の状態から死期が近いことを推測した看護師はそれを息子に伝えた。「とうとうですか」と息子はその事実を冷静に受け止め、遠くに住む姉に連絡した。数日後、姉が到着して訪問看護師も見守るなかDさんは静かに息を引き取った。亡くなる前には食事も水分もわずかしかとらなかった。その姿はまるで草花が枯れていくようで、自然に死を迎えて天寿をまっとうしたという言葉がぴったり当てはまるものだったという。訪問看護ステーションの管理者には息子から「本当にありがとうございました。なんの悔いもありません」と感謝の電話が入ったという。

 

この事例では家族が在宅ケアを受入れるまでに何度も心の揺れ動きが見られた。これは決してめずらしいことではない。ベテラン訪問看護師によれば「家族が“入院させたほうが良かったのでは”と揺れ動く期間は必ずある」という。しかし、この時期を経るなかで息子夫婦はDさんの食欲の減少や睡眠時間が長くなるなどの変化を受け入れ、別れの覚悟を固めていくことができた。入院をしていれば点滴などで体の栄養状態は保つことができてもう少し長く生命は維持できるかもしれない。しかし、家族がこのように別れを覚悟する時間はとれなかったのではないだろうか。

 

-自宅で死ぬということ- 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は1月10日にお届けしますのでお楽しみに

15.「在宅ケアは無理」と訴えていた娘に最期は自宅で看取られた女性

Mさん 年齢:70歳 女性

病歴:認知症、胃がん

家族:夫とは死別。徒歩圏内に結婚して家を出た娘(50代)が住む。

 

Mさんは夫と死別してからはずっと一人暮らし。軽度の認知症を発症していたが生活全般には問題なく、ヘルパーの助けもなく生活をしていた。近所に結婚して家庭をもった娘がおり交流があった。あるとき体調を崩し病院に行くと胃がんが見つかった。医師は手術は勧めず薬で治療していくことが良いのではないかと娘に伝えた。仕事をもつ娘は「自分が自宅で母親の面倒を見るなど絶対に無理。どこかのタイミングでホスピスに入ってもらうようにしたい」と訪問看護師に訴えた。

 

この時期から週1回の訪問看護が始まったが、Mさんは認知症のせいか自分ががんと診断されたことも忘れたようでその後も一人で生活全般をこなすことができた。痛みもさほどなかったようで病院に行きたいなどの訴えもなかった。がんの影響で腹水がたまるのだが、自身ががんである認識がないため「なんでこんなにお腹が張るのかしら」という訴えを娘や訪問看護師にするのであった。

 

娘はそろそろ「ホスピスに入院を」と考えたが、本人の様子を見ていると言い出すタイミングを見つけられずにいた。訪問看護師は「ホスピスに入るにしてもご本人が納得されることが大事。今はまだそのタイミングではないのではないか」と伝えた。「本人は認知症なのだから病院でも自宅でも入ってしまえばわからないのではないか」というのは家族によくある初歩的な誤解の一つである。認知症であっても本人の意志は必ずある。納得しないまま施設に入っても自分の意志に反したことはわかる。看護師は服薬による痛みのコントロール、体の状態(血圧や脈拍など)を観察して訪問看護を続けた。

 

仕事をもつ娘にとっては自宅で母親を看取るなどそれまで想像もできなかった。しかし、入院するつもりなどまったくない母親と面と向かうとホスピスに入ったら?などと言い出すことはできなかったし、実際の母親の暮らしを見ていると一人でもそれなりに生活はできており、無理して入院することもないかと思うことも増えてきた。娘がもっていた「人は家で死ぬものではない」という意識が薄れてきたせいでもある。

 

しばらくするとMさんの体力はガタンと落ちた。その状態に合わせて訪問看護師は毎日訪れるようになった。Mさんからも「息をするのがしんどい」との訴えが出てくるようになった。心不全のせいか呼吸がゼイゼイと聞こえるようになり食欲もなくなってきた。訪問看護師はその様子から死が近づいていることを予感した。しかし「この状態でホスピスに移れば、かえってMさんの体に負担がかかり死期を早めることになりかねないし、娘さんとの最後の時間をゆっくり過ごすこともできないであろう」と感じた。そこでありのままにその思いを娘に伝え、さらに「それでもホスピスに入院させたいと思ったらいつでも言ってくださいね。すぐに手配をしますから」と最後までサポートすることを約束した。

 

Mさんはだんだん衰弱していったが最後までコミュニケーションはとることができた。娘はMさんが亡くなる一週間前から仕事を休み、いっしょに過ごし最期を看取ることができた。娘は訪問看護師に「家で看取ることができて本当に良かった」と繰り返して伝えた。

 

はじめは母親をいつホスピスに入らせるかばかりを考えていた娘であったが、Mさん本人が最期まで家で過ごす強い気持ちをもっていたことと、実際にMさんが1人で生活する努力を続けていたことを見て、娘もそれを最後までサポートしようという気持ちに変化したようである。また訪問看護師が「いつでもホスピスに入れる手配をしますよ」と伝えたことで安心感が生まれ、それがかえって母親を家で看取る覚悟につながったのではないだろうか。本人と家族の気持ちが一致して、そこに医療スタッフと地域施設との連携ができれば在宅ケアへのハードルはもっと低くなると感じられる事例である。

 

-自宅で死ぬということ- 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は12月27日にお届けしますのでお楽しみに

14.「畳の上で死にたい」と家族の思い出のある自宅での死を望んだ女性

Jさん 年齢:90歳 女性

病歴:認知症、末期内臓がん

家族:夫とは十数年前に死別。娘がいるが絶縁状態。連絡がつくのは親戚の男性Kさん(30代)のみ。

 

Jさんは夫と死別してからは一人暮らし。娘とは連絡をとっていない状況のなかで認知症を発症。かろうじて親戚の男性Kさんと連絡がとれるのみだった。ヘルパーが食事や洗濯のお世話をしていたが、亡くなる数か月前から体調不良を訴えたためヘルパーがKさんに連絡を取り最寄りの市立病院に連れて行った。外来で末期の内臓がんと診断され、体力も衰弱していることからその場で入院を勧められた。しかしJさんは大声を上げてかたくなに拒否して帰宅。困った病院から訪問看護ステーションに在宅ケアが可能か相談があった。

 

訪問看護ステーションの管理者とケアマネジャーがJさんの自宅を訪ねると「帰ってくれ!」と最初は面会もできなかった。当時はヘルパー以外、訪問診療の医師さえも会えない状態だった。会えば「自分はどこかに連れて行かれる」という猜疑心をもっていたようだ。Kさんに相談して「市の職員」と名乗って訪問看護師がJさんと面談。ちょうど玄関の電球が切れていたので「明日に取り換えに来ますね」と約束して翌日に訪問するなどしてようやく人間関係を築けるようになった。

 

Jさんの自宅は昭和に建てられた2階建て戸建て住宅で、1階は仏間、リビング、キッチンであり2階は使われていなかった。各部屋には家族の若かりしころの写真がたくさん飾ってあった。小さな庭がありそこに生えた草花がいつも仏壇に供えられていた。看護師との関係構築ができていくとJさんはかつて20代の息子を亡くしたことを語った。その息子、夫、両親を「仏さん」と呼んで仏壇で供養していた。その仏壇を守ることがJさんが入院をしないいちばんの理由だったようだ。Jさんは昔の写真を見ながら家族のことをよく語るようになり、今は連絡の取れなくなった娘にも会いたいと本心を打ち明けるようにもなった。Jさんにとっては一人暮らしであっても自宅はかつて家庭のあった場所であり、気持ちとしては一人ではなかったのであろう。体力が落ちていくなかで看護師は何度か「入院をしたほうが楽になるのではないか」と入院の意思を確認したがJさんは首を縦に振ることはなかった。それでも一人で家にいることはさみしいらしく、看護師が訪問した際には「よく来てくれた」と喜び、帰る際には「帰らんといて」と手を握ることもあったという。

 

訪問看護を始めたころは体力的にはまだ一人で出歩くことも可能ではあった。しかし認知症があることから外出先で帰宅不能にならないように訪問看護師は「地域見守り隊」をつくった。具体的にはJさん宅の向こう三軒両隣を訪問しJさんの状況を伝えて、もし近所で姿を見かけたときは声を掛けたり自宅まで送ってあげてほしいと頼んだ。昔から近所付き合いがあったことからみな快く受け入れてくれた(そのおかげで外出中に体力がもたず帰れなくなったJさんを近所の方が見つけて自宅まで送ってくれたこともあった)。

 

要介護2でヘルパーは毎日訪問して「身体介護(清拭や排せつ)」「生活介護(食事や掃除)」を行ない、訪問看護は週に3回、体の状態のチェック、がんの痛み止めの薬や水分がきちんと飲めているかなどの管理と本人の話をよく聞くことに徹した。時間の経過とともにJさんの体力は落ちていき、家の中を歩いて移動することも困難になってきた。看護師が訪問するとJさんは布団で寝ているだけでなく、仏間、キッチン、玄関などいろんなところで倒れるように寝ていることも多くなってきた。そこで看護師はどこで転倒してもケガをしないように布団を家中に敷き詰めた。訪問看護師は「どうやら一人のときは這うように家の中を移動して“自宅での生活”をされていたように思います。布団で寝ているだけでなく、ときにはリビングに行って家族の写真を見ながら語り掛けたり、玄関の様子を見に行ったり。病院のベッドの上にずっといるよりご本人は幸せだったのではないかと思います」と。

 

自宅で死ぬということは、その人にとってはそれまでの人生を歩んだ家族やご近所さんとの関係性の中で最期を迎えるという意味がある。たとえ一人暮らしでもJさんは亡くなった息子さんや夫や両親の供養をしている仏壇を守ることが人生の最後のおつとめだと思っていたのだろう。「畳の上で死にたい」と生前から言っていたJさんは、自宅に介護ベッドを入れることもなく文字どおり自宅の畳の上に敷いた布団で亡くなられたという。本人の望みどおりの最期だったのではないか。

 

-自宅で死ぬということ 著:小阿羅 虎坊(こあら・こぼ)

※「自宅で死ぬということ」は第2・4金曜日に更新します。
次回は12月13日にお届けしますのでお楽しみに。